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山伏として森を歩く [森]

日本海
桜小路

山伏になってみたいと思い、一年が過ぎ、今年3日間の修行を受けることができた。
僧侶の愚弟に、山伏修行に出羽三山に行くよ、とLINEすると、あらあなた死にに行くのね、と言われ、行があけて鶴岡についたと連絡すると、死んで生き返った? とLINEが来た。
全くもってそのような経験だった。

大聖坊、羽黒山伏星野先達の元で受けさせていただいたのだが、先達の姿、動き、言葉は説得力しかなく、行を積んだ者だけが持つ強さを感じた。

羽黒山伏は、出羽三山を歩き、山に祈りを捧げる。山は神でもあり仏でもある。神仏習合、歩いては御神体を前に祝詞と般若心経を詠みあげる。

修行では、即今当初自己。今、今、今に追い込まれる。今への状況判断を繰り返し肉体を駆使する。
月山、湯殿山、山駆けでは、雨に濡れた大小の石が傾斜に連なる山道、羽黒山では2500段の石段、先達のあとを30名ずんずん歩く。踏み出すひと足を間違えれば転げ落ちる。先を見れば気が遠のく。来た道を振り返る余力もない。足元だけに注意を払い、金剛杖と足先に力を込める。みんなが、みんなで歩いている。もうやめるわけにいかず、足を踏み出すしかない。

限界だ、というタイミングで先達の鈴の音が止む。小休止、の声。
疲れ切った脚を休めるとき、ようやく顔を上げ、周りを見渡す余裕が生まれる。風が頬を撫でる。音が聴こえ、匂いを感じる。そのとき、やっと自分がいた場所に気づき圧倒される。

空っぽの頭でポカンと見上げると、森と空が迫ってくる。五感は開ききり、情報がいっせいに等価に注がれる。風に大きく揺れる樹と螺旋を描いて落ちる一枚の葉、滝壺に注がれる水の轟音と遠くで響くキツツキのドラミング、たな引く雲と眼前を横切る蟻。
全体と細部が同時に見えたとき、まるで自分が山の中に溶けて消えていくような感覚に陥る。

修行中は、うけたもう、という言葉以外発してはいけない。みんなで、しかし各々に山をうけたまう。
うけてうけてうけ続けた後に、勝手に内から湧いてくるものがある。ああなるほど、これが山への祈りの始まりなのかなと思った。
山で人は野生に戻る。そして野生にはない、人だからこそのこの感覚に出会う。山を尊ぶ感情が、声を合わせて詠みあげる祝詞と般若心経に繋がる。

知りたいことがたくさんあったのだが、追いつかないくらい色々なことがあった。全身ひどい筋肉痛で、四十肩の激痛を忘れるほどだ。
ただ、やってみたいことはやったほうがいいね。湧いてきたものは、頭でおさえないほうがいい。
おかげで色々と腑に落ちた、3日間だった。

ちなみに、写真の葉っぱは、ムササビの食痕。三山の道道にたくさんたくさん落ちていた。金剛杖をつきながらも葉を見るにつけ、樹洞から顔を出したムササビたちに笑われているような気がして、転ばないようにしなきゃと踏ん張れた。
後で知ったのだが、一説にムササビは天狗のモデルだそうだ。なんだ、ムササビ、山伏だったのか……。

山伏になってみたいと思い、一年が過ぎ、今年3日間の修行を受けることができた。
僧侶の愚弟に、山伏修行に出羽三山に行くよ、とLINEすると、あらあなた死にに行くのね、と言われ、行があけて鶴岡についたと連絡すると、死んで生き返った? とLINEが来た。
全くもってそのような経験だった。
大聖坊、羽黒山伏星野先達の元で受けさせていただいたのだが、先達の姿、動き、言葉は説得力しかなく、行を積んだ者だけが持つ強さを感じた。
羽黒山伏は、出羽三山を歩き、山に祈りを捧げる。山は神でもあり仏でもある。神仏習合、歩いては御神体を前に祝詞と般若心経を詠みあげる。
修行では、即今当初自己。今、今、今に追い込まれる。今への状況判断を繰り返し肉体を駆使する。
月山、湯殿山、山駆けでは、雨に濡れた大小の石が傾斜に連なる山道、羽黒山では2500段の石段、先達のあとを30名ずんずん歩く。踏み出すひと足を間違えれば転げ落ちる。先を見れば気が遠のく。来た道を振り返る余力もない。足元だけに注意を払い、金剛杖と足先に力を込める。みんなが、みんなで歩いている。もうやめるわけにいかず、足を踏み出すしかない。
限界だ、というタイミングで先達の鈴の音が止む。小休止、の声。
疲れ切った脚を休めるとき、ようやく顔を上げ、周りを見渡す余裕が生まれる。風が頬を撫でる。音が聴こえ、匂いを感じる。そのとき、やっと自分がいた場所に気づき圧倒される。
空っぽの頭でポカンと見上げると、森と空が迫ってくる。五感は開ききり、情報がいっせいに等価に注がれる。風に大きく揺れる樹と螺旋を描いて落ちる一枚の葉、滝壺に注がれる水の轟音と遠くで響くキツツキのドラミング、たな引く雲と眼前を横切る蟻。
全体と細部が同時に見えたとき、まるで自分が山の中に溶けて消えていくような感覚に陥る。
修行中は、うけたもう、という言葉以外発してはいけない。みんなで、しかし各々に山をうけたまう。
うけてうけてうけ続けた後に、勝手に内から湧いてくるものがある。ああなるほど、これが山への祈りの始まりなのかなと思った。
山で人は野生に戻る。そして野生にはない、人だからこそのこの感覚に出会う。山を尊ぶ感情が、声を合わせて詠みあげる祝詞と般若心経に繋がる。
知りたいことがたくさんあったのだが、追いつかないくらい色々なことがあった。全身ひどい筋肉痛で、四十肩の激痛を忘れるほどだ。
ただ、やってみたいことはやったほうがいいね。湧いてきたものは、頭でおさえないほうがいい。
おかげで色々と腑に落ちた、3日間だった。
ちなみに、写真の葉っぱは、ムササビの食痕。三山の道道にたくさんたくさん落ちていた。金剛杖をつきながらも葉を見るにつけ、樹洞から顔を出したムササビたちに笑われているような気がして、転ばないようにしなきゃと踏ん張れた。
後で知ったのだが、一説にムササビは天狗のモデルだそうだ。なんだ、ムササビ、山伏だったのか……。
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